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ポジャールスキー公、またはポジャルスキー公(ポジャールスキーこう、)は、ロシア帝国が配備した最初期の装甲巡洋艦()のひとつ。ロシア最初の大等級鉄製装甲船()。 当初は航洋型の装甲フリゲート()として設計されたが、配備後すぐに改修工事を受けて装甲巡洋艦に準じた設計となり、その就役期間の大半を装甲巡洋艦として運用された。ロシア帝国海軍がクリミア戦争敗戦からの復興と外洋進出を熱望した19世紀後半に艦隊主力として整備した、「大洋巡洋艦」()シリーズ 3 番目の巡洋艦である。 設計上、当初は帆装装甲砲門フリゲート()、改装後は装甲巡洋艦と呼ばれたが、では次のように分類された。当初はコルベット()または装甲コルベット()、1866年11月8日〔からはフリゲート()〔または装甲フリゲート、1892年2月1日〔からは 1 等巡洋艦()〔に分類された。第一線を退いたのち、1906年3月11日〔からは練習船()、1909年10月27日〔からは()〔に分類された。 艦名は、ロシアでは救国の英雄として知られる 公に敬意を表して命名された。姉妹艦は、ポジャールスキー公の相方であるクジマ・ミーニンから「ミーニン」と命名されている。 == 概要 == === 背景 === 木造蒸気軍艦の時代の次にやってきたのは装甲艦の時代であったが、初期の装甲艦は重防禦と重武装に重きが置かれており、航行性能は二の次であった。装甲艦の低いと短い航続距離は、非装甲の機帆走フリゲートにも活躍の場を残したが、それらはやがて二つの観点から次の段階へと発展した。一方の観点は、艦の性質、用途であった。しばしば「巡洋艦」と呼ばれるように、フリゲートには高いと独立性が期待された。その要求を満たすためにフリゲートは比較的大型で鉄製の船体を持つことになったが、大きな速力と航続力を持つかわりに武装は少なく、少ない乗員で動かされた。防禦の脆弱さは、抜きん出た速力によって逃げるということで補われるという考えであった。もう一方の観点は、フリゲートにも防禦装甲を与えるという発想であった。これによって出現したのが、装甲フリゲートであった。 両観点の両立は、専ら外洋向けのフリゲートに対して求められた。例えば、沿岸域防衛用に設計された装甲フリゲートである「砲塔フリゲート」は進入した敵艦艇を撃退する「移動」要素〔沿岸防衛用艦隊の構成要素は、「浮動」要素(装甲モニター艦、砲艦、浮き砲台)と「移動」要素(巡洋艦、水雷艇)に分けられていた。〕のひとつであったが、装甲を持つかわりに低い航行性能と短い航続距離しか持たない「沿岸防衛巡洋艦」であり、二番目の観点しか考慮していない〔。 ロシア帝国でふたつの観点両面からのアプローチがなされたのは、1861年に起工された]であった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポジャールスキー公 (装甲巡洋艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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